故事的力量絕不會褪色
推理評論家 玉田誠二〇〇九年に日本の講談社から『アジア本格リーグ』の一冊として刊行された本作が、こうして装いを新たに再び台湾で復刊されたことを、日本に紹介した訳者として嬉しく思う。本作『錯置體』は、長編作品として日本に紹介された、華文本格ミステリの嚆矢といえ、当時の紹介文には「台湾ミステリーの最前線をリードする、鬼才の異形の本格ミステリー」とあり、その扇情的な惹句の通り、本格ミステリの定石を大きく逸脱した野心的な作品である。その作風は、怪奇と幻想と、そして推理が未分化のまま混沌としていた『宝石』『新青年』の探偵小説を彷彿とさせるとともに、本格ミステリの定石から大きく逸脱した試みは、いま読み返しても賛否両論を巻き起こすであろうと感じる。物語は、語り手の藍霄が受け取った奇怪なメールによって幕をあげる。メールの差出人である王明億が訴えるその体験はまさに奇妙としかいいようがない。カフェで大学の同期たちと談笑しているさなか、彼がトイレから戻ってくると、周りの仲間全員が自分のことを忘れてしまっていたというのである。まるで席を立っていたほんの一瞬に、周りの世界はこともなく入れ替わってしまったとでもいうのか。まるで異次元に入り込んでしまったかのように――まさにホラーか、SFのような「幻想的な謎」は、読者の興味を惹きつけるに相応しい。だが、ここで注目したいのは、そうした「幻想的な謎」そのものではなく、探偵である泰博士がこの謎を解き明かす端緒となる「気づき」であろう。彼は、この記述にある厳密さ、緻密さ、正確さに疑問を抱き、そこから犯人の残した足跡を辿って、真相ヘと近づいていく。厳密さ、緻密さ、正確さこそは、本格ミステリにおいて重要視されるべきものであるが、本作では、こうした本格ミステリの謎解きを成立させる構成要素そのものに疑義を呈しているのである。こうした挑戦的な、そして実験的ともいえる本作の趣向は、作者の狙いなのか、どうか。本作の「第五章
秦博士的獨木橋」において、作者は、語り手である藍霄に、本格ミステリにおいて「最理想的解謎是在全書的最後一行,這樣才能得到最強的意外性!」と語らせている。では、本作は、果たしてこの「最理想的解謎是在全書的最後一行,這樣才能得到最強的意外性」を満たした物語であろうか。おそらく読者の多くは、本作の「最後一行」で明らかにされるある決定的な真相については、複雑な感慨を抱かれるのではないか。ここには、読者をあっと驚かせる良質なカタルシスは存在しない。むしろこの感覚は戸惑いや疑念に近いのではないか。胸がざわつくような、後味の悪さ。果たしてここで語られているものは真相なのか、どうか。探偵の明快な謎解きによって、謎という混沌は平時の安寧へと収束するはずが、ここでも本作は、本格ミステリの定石からはまったく外れていることに読者は気がつくであろう。また本作をフーダニットの謎解きの視点から見ても、この真相は「最後一行」と同様、読者はやや煮え切らない読後感を抱かれるのではないか。意外な犯人には違いない。だが本作におけるフーダニットは、決定的な一人の犯人を炙り出すものではない。ある属性を隠蔽する目的で犯人が仕掛けた誤導への異様なまでの執着は、逆に犯人の足跡となり、探偵が真相へと近づくきっかけをつくってしまっている。この点は、先に述べた、厳密さ、緻密さ、正確さに対する姿勢と共通する。すなわち、本格ミステリが遵守していた「お約束」を軽やかに裏切り、読者の心中に戸惑いや疑念を惹起させる仕掛けこそが、本作の狙いであり、それがまた本作の日本版では「異形」という言葉によって紹介されたった所以であろう。 さて、『アジア本格リーグ』の一冊として、中国、韓国、インドなどの作品とともに日本で翻訳刊行された本作であるが、ここからは、この企画が生まれた経緯について語ってみたい。筆者がこの企画を提案した当時、自分の念頭にあったのは、一九八三年から一年をかけて刊行された集英社の『ラテンアメリカの文学』シリーズと、八〇年代から九〇年代前半に水声社から刊行された『アンデスの風』だった。海外の作品といえば欧米の作家のものしか読んだことのなかった筆者が、コルタサル(Julio...
星期五, 3月 08, 2024
08
3月
犯錯的,可能是上帝?
藍霄經典作品20週年紀念珍藏版
島田莊司2009「亞洲本格聯盟」出版選書
臺灣第一本翻譯至日本的長篇推理小說
推理評論家 玉田誠 專文推薦
&nb...